2012年9月10日月曜日

SSメモ:NARUTO ~うちはサスケと八百屋のヤオ子~

NARUTO ~うちはサスケと八百屋のヤオ子~(熊雑草)

変態だーーーっ!!

何この主人公のヤオ子、女なのに変態とドスケベ通り越して、もはや歩く猥褻物じゃねぇか! これみよがしにセクハラしてはお仕置きされ、銭湯入店禁止はもちろんのこと、ヤオ子の服装=変態注意の概念になるとかどうなのよ!? このエロに対するこだわりの深さと潔さ、そして何よりもその執着心!! こいつ、すっげぇ馬鹿だ。馬鹿な上に変態だ。そして変態で、なにより変態だ。極めつけに変態だ。この変態がっ!(褒め言葉

ただ、ヤオ子が単なる変態だったら物語もそこまで進まないんですよね。馬鹿で変態だけれども、優しくて献身的で努力家で、やっぱり普通の女の子の感情もあるわけですよ。そんな女の子だからこそ、サスケは見過ごせなくて自分と重ねてついついかまってしまうんです。かぁーっ、なんとも甘酸っぱい青春の匂いじゃないですか。

この作品、実は変態だけじゃなくて地味ーにいろんなテーマを内包しているんじゃないかと思う時があります。大人になることや受け継ぐことあたりが一番読み取りやすいものじゃないでしょうか。だいぶ露骨に描かれているので、結構わかりやすいはず。たぶん。もしかしたら勝手な思い込みかもしれませんが。……もう思い込みでもいいや。ともかく、いろいろ読者に伝えたいことがあると思っているんです。で、その中でも特に感じたのは変態についてです。もちろん単に「変態」を伝えたかった! という意味ではなくて、変態という「個性」(もはや死語か?)についてです。

変態はヤオ子のアイデンティティです。8割は変態と自負するくらいには、自分が変態だと認めています。つまりはそれがヤオ子の個性なわけです。自分なりの言葉で言い換えれば、この変態という個性こそがヤオ子の行動原則であり、その原則から外れる行動はしないわけです。だから周りはみんなヤオ子を変態だといい、ヤオ子自身も自分を変態と称するのです。ここに何かしら作者の言いたいことが見えませんか? すなわち、自らの行動原則を自ら律することで、他人からの評価を決定することができる、ということ。読み流しててふとこういうことが思いついたわけです。まぁ国語の成績が10段階評価で7という微妙な人の戯れ言だとでも思って流して下さい。

なぜか真面目な話題になってしまったので本題。
それにしても驚いた。いや、変態に驚いたわけじゃなくて、このSSの展開にです。
ぶっちゃけ文章力に関してはそこまでうまくないし、シナリオも打ち切り気味で(これはまぁNARUTOという作品を考えればそうせざるを得ないのですが)なんちゃって完結というどうにもしまりが悪い終わりなんですが、特筆すべきは物語の展開です。このSSの連載当時、たしか原作ではまだ穢土転生で各里の忍を復活させるところまで描かれてなかったはずなんですが、まさかの先にそれを描くという先取りっぷり。それを可能にしたのは、原作に対する鋭い考察なんですよね。

この作品、随所で原作の矛盾点やおかしな点を指摘しており、それらを単にアンチするわけではなく独自に考察を深めては、さもありなんという結論を出すんですよ。その入れ込み具合はラーメン一楽のスープの味についても言及する始末。いやはや、ここまで独自に考えられるのもすごいことです。それだけ原作を読みほどいており、なおかつリスペクトしているんだなぁ、と素直に感じさせられます。二次創作好きの一読者として、作者の作品への愛を讃えたい。

原作に沿ったストーリーで、サスケ救済に立ち向かう1人の女の子を描いた大作です。やっぱりこのSSを表す一番の表現はこれしかないでしょう。

『八百屋のヤオ子さんが、サスケさんを健気に待ち続るはずの物語』
(NARUTO ~うちはサスケと八百屋のヤオ子~ 第116話より)